長野県木曽町の地域活性化に取り組む 鰍ワちづくり木曽福島 のサイトです

       





ここで、木曽福島の商業の歴史をご案内しましょう。

祝い唄
  ♪高い山から 谷底見れば 瓜や茄子の花盛り〜

木曽節とともに木曾の地域で謡い継がれている祝い唄の一節です。
皆さんの町にも似たようなフレーズがあるかもしれません。
この唄は、年配者が若者をみてその賑やかさを詠ったものだと言われています。
木曽福島経済の変遷をこの祝い唄にたとえてご紹介しましょう。


高い山
木曾御岳。
3067mの雄大なその姿は、東洋のキリマンジャロと呼ばれています。
かつて木曽福島は、御岳信仰の登山基地として賑わいました。

木曾というと「ひのき」の美林を思い浮かぶように、
木曾では深い山々とそこから産出される木材資源が生活に産業に大きくかかわってきました。
もちろん木曽福島でも木曾春慶塗と呼ばれる漆器職人が多くいた時代もありましたが、
木曾の中心地である木曽福島では、
そうした職人(工業)のまちから商人(市=流通)のまちへと変遷していきます。

そして、木曽福島が本格的に商都として賑わうのは、
江戸中期に始まる御岳信仰からといえるでしょう。
それは明治維新を迎え中山道が廃止された後でも、
中央本線の開通により、ますます隆盛を迎えます。

また、日本有数の馬市場の開催地として、
昭和中期まで木曽福島の街は大きな賑わいを呈していました。
谷底
昭和も40年代を過ぎると、高度成長とモータリゼーションの波は容赦なく地方を襲います。
木曽福島も例外なく大きなダメージを受けました。
日本の地方を衰退させたのは明治維新や世界大戦ではなく、戦後の高度成長と云われています。
確かに中央集権を生んだ明治維新や悲惨な世界大戦は国家に大きな変革とダメージを与えましたが、
地方の根本的構造そのものには、さほど大きなダメージを与えませんでした。
ところが、高度成長による産業社会の構造的変化は、
都市へ人口流出を生み、地方の機関産業を根本から覆し、
その後の地方とその中心市街地の存在は残酷なほどに無力化無用化していきます。
その衰退は周知のとおりでしょう。

官民ともに木材産業が機関であった木曽の産業は、
国産材の高騰と外材の自由化が疲弊する木曽地方に拍車をかけ、
雇用の場を奪い、働き手を奪い、木曽の活力を奪った結果、
木曾郡の商都として栄えた木曽福島も衰退し始めます。

また、産業構造の変化とともに到来した車社会は、人々の行動範囲を拡げ、
よく言われるように郊外型店舗を増殖させて市街地の空洞化を招きました。
木曽福島の場合にはそれのみならず、鉄道から自家用車に切り替えた登山者が
より高い場所まで足を伸ばすようになり、登山基地としての木曽福島の役割も終焉します。

こうした二重の痛手を受けた当町では、
それでも昭和40年代後半に起こる木曽路ブームにより空前の大盛況を見せたものの、
その後今日まで抜本的な商業立地対策と観光対策の転換がなされなかったため、
まさに谷底の、時代に立ち遅れた町になってしまったのです。

花盛り(再び賑わいのあるまちへ)
いま、衰退する地方のなかにも、自力で輝いている町があります。
そして、それらの町には共通する部分があります。

 自然の安らぎがあること(生かしていること)。
 自然の恵みと先人の遺産を工夫して取り入れていること。
 そしてオンリーワンであること。

私たちは、もう一度、この街に賑わいを取り戻そうと立ち上がりました。
そのために地域の良さ(資源)を徹底的に見つめ直しました。

そして、気がつきました。
地域には、まだまだ隠れた魅力があることを。

地域にあふれ自然の恵みと先人たちが残した歴史的資源。
それらを最大限生かした
「歩くたびに感動があるまちづくり」=歩いて感じるまちを目指すことにしました。

木曽川を生かし、森林を生かし、小路を生かした街、人々が安らぎ、憩うことができる街。
それは、まさしく今国内を旅する人が望むスローに歩いて
その土地々々の歴史(奥行き)に触れられる旅に結びつくことでしょう。
いつか、私たちがこの谷底の町を見下ろしたとき、
私たちの子孫が再び賑わいのあるまちなかで楽しく暮らしている姿を思い、
私たちは魅力あるまちづくりを進めます。


→(4)中心市街地活性化構想・TMO構想の概要

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(2)木曽福島の中心市街地活性化
(3)木曽福島商業の歴史
(4)中心市街地活性化構想・TMO構想の概要
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